「こんなに心を騒がせて、日曜の神の静けさから遠く離れてしまった。」そう感じる平日の自分がいる。
信仰は実践してこそ活きる。ファリサイ派は行いへの熱意から律法に細則を加えた。だがイエスさまは警告する。義務と執着からの行いは自我に聞き、神に聞かなくなる危険があると。
行いは信仰から、そして信仰は聞くことから始まる。心から聞くとき、相手の存在が近づく。イエスさまは神に聞き、その近さを喜びとした。申命記4.1の原文は「聞け、今、掟と法に。」「今、あなたの近くにいるわたしの存在を聞け」と。イエスさまはいつも父に聞き、父の存在の近くに留まりつつ、教え働き、命を献げられた。
死ぬという結果が全てではなかった。その途上で常に父の存在を近くに聞きつつ、父の憐れみを行いで示した。だから私たちが生きる途上で近くにいて、復活と昇天へと導く力を持つ。
主は近くにいる。神を忘れて騒ぎ働く心よりもずっと自分の近くに。だから「今、近くにいる」と信じ、心を空っぽにして精一杯働くとき、行いの只中で神の存在が近く聞こえる。「わたしは今、あなたと共に、精一杯、働いているよ。」
行いと歩みの只中で、神の存在が聞こえる。これが受肉信仰を実践する者の、活きた喜びだ。