お魚に揚げ物にお野菜に、、、。毎週8時半から4人の姉妹が愛餐会の食事を準備する。「今日あの人は来るかな?」高齢の方の喜ぶご馳走を、好き嫌いも把握し、毎週違う献立で、足腰が痛くても頑張って準備する。「嬉しい楽しい食卓を囲もうよ」と。この気持ちを受け取るからこそ、寂しい心も満たされる。
料理する女性の心をよく知る神さまは、神の知恵を、食卓を整えて呼びかける女性に譬える。「知恵の食卓ができた、今すぐおいでよ!」神は私たちの肉体を日毎の糧で養うだけでなく、私たちの心と人生を主の食卓、聖餐で養う。
献立は「浅はかさを捨てて命を得る」知恵。(9.6) 食欲を満たしては消えるこの世の食物ではない。浅はかさとは、自分だけを力の源として一人孤立して生きる姿勢。逆に人間の深みとは、自分を超えた誰かとの関係に貫かれて生きる姿勢。「主を畏れることが知恵の始まり。」(1.7) 主との関係に留まってこそ人は初めて自分の根源を得、その人格に深みが出る。この関係性こそが神の献立だ。
イエスさまはこの食卓を準備された。限界を超えて痛み、死に、復活して準備された。その肉を食しその血を飲むということは、何があってもこのお方との関係に貫かれて生きる、ということだ。準備したお方の気持ちをしっかり受け取ることだ。
「さあ、準備はできた。今すぐおいで。わたしと命の関係を結ぼう。」
「さあ、準備はできた。今すぐおいで。わたしと命の関係を結ぼう。」