「私は家族を導けていない」と嘆く。だが人を導くとは、洗礼や礼拝の外的な印(しるし)に与らせることだけか。いや、印の目的は本人が内的に主を自分の神として選び取ること。「他人は関係ない、私は主と共に生き、共に死に、共に復活する」と。自分はただ主を選ぶ姿を示すだけだ。
ヨシュアは十二部族全員を導きたかった。出エジプトの主を「共に生きる神」として心から選び取って欲しかった。そのためにシケムに皆を集め、まず語った。主がどう自分たちを選び導きこの地を与えたか。そして人生の選択を彼らの前に置いた。「今日、自分で選びなさい。」
彼はしかし相手に求めるよりも、自分が主を選ぶ姿を示した。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕える。」主を選ぶこの姿に打たれた人が、自らも主を選び、神の民となったのだ。
「お前も逃げるか?」イエスさまも選択を置く。「いいえ!」と気合いを入れても、ペトロのように裏切りは避けられない。でも赦しがあるなら、何度でもまた主を選び、神に帰りたい。
人が主を選ぶ力の根源は、人となられた神イエスご自身が父を選び取られた意志力によります。このお方の力にあずかって、主を選び取りましょう。
彼はしかし相手に求めるよりも、自分が主を選ぶ姿を示した。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕える。」主を選ぶこの姿に打たれた人が、自らも主を選び、神の民となったのだ。
「お前も逃げるか?」イエスさまも選択を置く。「いいえ!」と気合いを入れても、ペトロのように裏切りは避けられない。でも赦しがあるなら、何度でもまた主を選び、神に帰りたい。
人が主を選ぶ力の根源は、人となられた神イエスご自身が父を選び取られた意志力によります。このお方の力にあずかって、主を選び取りましょう。