「わたしは、あなたが、好きです。」
告白の言葉に自分自身を掛ける。想いは拒まれるか聞き入れられるか分からない。しかし自分の愛だけには嘘をつきたくない。だから告白する。
聖書の神は、理性で自分を抑える犠牲愛だけでなく、恋い焦がれる熱情の愛でもある。たとえ相手に拒まれても「お前を愛している」と語り続ける愛。神はこの愛を、創造で語り、出エジプトで語り、預言者を通して語り、最後には自ら人となって語られた。告白された。
預言者エゼキエルに託された主の想いは「他の神々に頼ったから民は滅びる、だがわたしは必ず復活させる」という裁きと回復の使信。裁きも回復も、神から民への愛の告白だ。それを語り続けるのが預言者としての召命だ。
告白は、説得でも懇願でもない。神の愛にだけは嘘をつかないために、愛を証言することだ。相手の反応は自分の手の内には無い。御手の内に有る。これは「招待の主日」活動と同じ。説得して人を教会に連れて来るのではない。「あなたは神に愛されている。教会に来てみませんか」と告白して招待するだけだ。
「今、この人に神を告白する、私はそのために生きてきたんだ」そんな時が必ずある。