「私たちは神の筆先。」これを合言葉に、キリシタンたちが厳しい禁教下で信仰を守る姿を、帚木逢生(ははきぎうせい)さんの小説「守教」は描く。
難しい言葉よりこの単純な譬えが、教会や聖像などが破壊されても、日常生活の中で神の国を現す力の源となる。「こんな私でさえ神は信頼して、筆先にしなさった。この信頼に忠実に応えたい」と。
国が滅びた絶望の中でエレミヤが見た未来もまた、神が再び民を信頼する日だった。「私の律法を…彼らの心に記す。」それは契りを破った民を神が赦し、もう一度新しい契りを結ぶ日だ。それは神が自分の律法、つまり御心を、民に託す日であり、民がそれに忠実に応える日だ。
その日は主イエスさまの内に成就した。イエスさまは「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12.25)という使命を父から託され、私たちと同じ弱さを抱える人間となられた。そして父の信頼に忠実に応え「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」磔刑で死んでいった。父はこの忠実さに報いてイエスさまを復活させ、今も生きて信徒のうちに多くの命の実りを結ばれた。イエスさまこそ父に信頼された神の筆先だ。
そして私たちをも神は信頼し、心の内にイエスさまを与えて神の筆先としてなさった。この信頼への忠誠を、日常の中でどう表わそうか。