
大預言者エリヤが鬱状態だ。殉教する勇気もない。バアル崇拝者との対決後、王妃イザベルに命を狙われ、恐怖から北王国から南王国へ、さらに南のシナイ山まで逃げてきた。そして勝手に燃え尽き、絶望して死を願い、仲間に見捨てられた孤独感に苛まれ「自分は情熱を傾けたのに」と神に徒労感を嘆く。まるで教会生活や宣教活動に疲れた信徒聖職のようだ。
しかし神は怒りにまかせて暗い心を懲らしめない。風や地震や火で、人間の暗さを吹き飛ばされない。代わりに全ての騒がしさが過ぎ去った後の「純粋な静けさの声」として、主はエリヤに臨まれた。神は騒しさではなく静けさだ。恐怖、不安、絶望、不満、、、心が騒がしくなる以前に、彼の存在を肯定する有りて在る者だ。この安心の中で、暗い心は受容され、遣わされる。
イエスさまは100%の人間だ。殺される使命と恐怖を感じた時、まず山に逃げ、退却されたのではなかろうか。そしてエリヤの神の「静けさの声」を自ら聞いて騒ぐ心が鎮められ、力づけられ、再び遣わされた。その時、静けさの声は愛の宣言に聞こえた。「お前はわたしの愛する子!」
心騒ぐ日、静けさこそが、神の愛を宣言する。