「今、神学校に行きなさい」と恩師に言われた時、正直ぴんとこなかった。60才まで精神保健福祉に身を投じても遅くはないと考えていたからだ。しかし「召命は人生設計ではない。主は今、お前を呼んでいる」と言われて初めて、
鏡に映る自分の奥から「今、わたしに従いなさい」と呼ぶ主の囁きを聞き、決心できた。
鏡に映る自分の奥から「今、わたしに従いなさい」と呼ぶ主の囁きを聞き、決心できた。
「預言者」の先駆けとなったサムエルは、最初は神の声を認識できなかった。気づいたのは老司祭のエリだった。エリは既に目も心も鈍く、しかも主の言葉は自分に対する裁きであったにも関わらず、サムエルに「主よ、お話しください、と言え」と教えた。神の言葉へのエリの誠実さがあったからこそ、サムエルは神の召命を聞けた。共同体の助けがあって、人は神の声にそれと気づけるのだ。
「来て見てみない?」とフィリポが友人を招待したのが宣教の始まりだ。宣教は勧誘ではない。神の受肉ま救い、イエスさまに繋がる共同体への招待だ。イエスさまの共同体、キリストの体、神の神殿となって初めて、愛と裁きの神の言葉を聞いて救われる。イエスさまはその命を持ってこの共同体に招待される。
だから、神の言葉に、一緒に聞いてみない?