この「わたし」とは、イスラエルを奴隷から解放した指導者モーセだ。彼は初めは神の名を知らず、吃音が重く、解放を宣言する自信も信用もなかった。
しかし燃え尽きない柴に現れた主の愛情に突き動かされ、神の言葉を実現することに身を投じ、民を忍耐強く導いた。申命記では、モーセのようではない預言者は全て偽者だ。真の預言者が語れば、聞く人の内に出エジプトの愛が実現する。語る言葉に実現力がある人だ。
イエスさまの「権威ある」言葉は権威主義者のそれではない。モーセのように燃え尽きない神の愛情に突き動かされ、人の痛みを下から知り、人の解放を実現する力を持つ言葉だ。この言葉でイエスさまは苦しむ人から悪霊を追い出し、罪人に赦しを宣言し、神の愛を語った。そして十字架で自分自身を「あなたはわたしの愛する子」という一つの力ある言葉にして全人類に宣言し、信じる者の内に神の国を実現された。
私たちはがっかりする。モーセやイエスさまとは大違いで、言葉と行いが一致しない偽預言者を他人の内に、または自分の内に見るからだ。
しかし主はそんな私たちをも預言者として用いる。モーセのように炎に突き動かされ、私たちは「あなたも神の愛する子だ」と宣言する神の言葉となり、人の内に解放を実現するのだ。