しかし聖書の昔と違い、今の私たちの社会と日常にはイエスさまの顔は隠れている気がします。社会は神を忘れ、教会はしぼみ続け、祈りの生活でも御顔を見出せない自分がいます。
預言者イザヤは、バビロンから帰った後の神殿の廃墟で嘆きます「あなたはわたしたちから御顔を隠した。」だから「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もいない。」(64.6) 諦めの心が社会や神の民を支配し、人は祈ることすら止めたのです。
しかし神を待つ人は「御顔が隠された」日にこそ、神に会ってその顔を見る日を待ち望みます。絶望的な日にこそ、その絶望を希望に込めて待つ者に父は必ず計らって下さるからです。
イエスさまは死刑にされた時、「見捨てられた」と絶望しました。しかしその絶望は「わたしの神よ、なぜ?」と父への呼びかけの形をとった、答えを待つ希望に込められました。だから三日待った後、神が計った復活が成就しました。
イエスさまに会い、その顔を見る喜びを想像し、御顔が隠された日々にも、待ち続けましょう。
イタリア、トリノ聖ヨハネ大聖堂 蔵