「賢い乙女と愚かな乙女」ロッサーノ福音書、6世紀、 ロッサーノ教区美術館蔵 |
悪夢だ。愚かな乙女も皆共に花婿を待っていたのに、油が切れた時「分けられない」と断られ、扉は閉められ、花婿に「お前らを知らない」とあしらわれる。「神が愛なら、油を分けて、誰でも入れくれるはず」と不平を言いたくなる。
しかし譬えを審く視点では、神の福音は聞こえてこない。「待て。悪夢はまだ現実ではない。花婿イエスはまだ来ていない。お前にはまだ賢い乙女になる可能性がある。余分の油を持て。」 愚かな乙女はせっかちで短気だ。「花婿は、救いは、すぐ来る。その先は知らない。来なけりゃ絶望するしかない。」無責任な待ち方だ。
それに対して賢い乙女は希望を持っているが故に忍耐強い。自分らも眠り込むほど花婿が遅れてもいいように、余分の油を携える。しかしどれだけ遅れても必ず花婿は来る、救いは来る。そして私たちは生かされる。それまでは、救いのない日も忍耐して絶望せず、父の御心を一日一日ただ黙って実践する。油とはそんな希望だ。
この希望ゆえにイエスは、神に見捨てられて死んでも、神に復活させられた。この希望ゆえに私たちは、どんな病気や障がい、死んだ様な日々や文字通り死ぬ日をも、忍耐して救いを待つことができる。花婿は必ず来るのだから。