
宮大工、西岡常一は言った。「木は物やありません、生き物です、人間もまた生き物です」。木は山に生えていた時は風雪に耐えて育ち、教会になっても湿気や音を吸収する。①祈る腕を置くレールも沈む。②西洋の教会は石造りでパイプオルガンの音を反響するが、日本の教会は木の足踏みオルガンが暖かみのある音色を出す様に、音を吸収して一緒に響く。礼拝堂は生きていて音を吸収し、③神も生きていて祈りを聞く。そして私たちを愛して暖かく包み、語りかける。「あなたはわたしの中で生きている。」
この木の礼拝堂の中心には彫刻がある。私たちの罪と過ちを赦すため神が流した赦しの血。その血の色の絨毯が導く聖卓に茨の冠の彫刻。継ぎ目ない一本の木。どれだけの時間と細心の注意をかけたか。後に自ら信仰者となった宮大工の心が籠る。多くの冠が連なるようでいて、絡み合った茨が祭壇を巻く一つの冠にも見える。
冠は力ある王が被る物。そして聖書で王とは神。イエスが現れた時、民衆は「油注がれた王、キリスト」と担ぎ出した。しかしイエスは軍事力で王にならず、反逆罪で逮捕され磔にされた。茨の冠はその時ローマ兵に被され①痛めつけられ②侮辱された物。「王様万歳、悔しかったら力を見せてみよ」。しかしイエスは最後まで無力に死んだ。民衆も馬鹿にし、弟子たちも見捨てた。無力に死ぬ人がなぜ王か分からなかった。
茨の冠の意味を知ったのは3日後だった。イエスが復活した、と目撃者が言う。本当に死んだのに、死を超えた命に復活し、今も生きている。ならばあの①痛みと、②屈辱は何だったのか、、、。そう考えるとあれは、私たちの痛みと屈辱を替わりに被ってくれたのか。そうとしか考えられない。イエスが被らされた茨の冠は、私たち一人一人の痛みと屈辱の冠だと。私が神を裏切った痛みと屈辱を、替わりに被ってくれた。
生きることが①痛い、②屈辱的と感じるのはどんな時? ①怪我や病気に負ける時、自分の失敗で幸せを潰し心がチクチク痛む時、②人に理不尽に侮辱された時、罪の力に自分の愛が、死の力に自分の命が負ける時。生きること自体が屈辱的に感じる時。そんな痛みと屈辱の時、茨の冠は印となります。神がその痛みを共にしている印。
「わたしはあなたの棘を被る。生きる痛みと屈辱を一緒に被る。死ぬまで被る。そして死を超える命へ導く。だからわたしを愛しなさい。わたしはあなたを愛している。」
「隣人を自分の様に愛しなさい。」私達の痛みと屈辱を被る程に、神は私達を愛しています。だから私達も愛して人の痛みと屈辱を被る。そこに真の生きる実感がある。
「あなたの茨の冠を被ってくれたのは誰ですか。あなたは誰の茨の冠を被りますか。」