神学校生活の頃、一人が重大な規律違反を続けていました。私は初め「わざわざ他人の行いに首を突っ込まなくとも」と無視しました。ですが、より人生経験豊富な神学生は違いました。「これは自分の信仰共同体を傷つける行い、人ごとではない」と介入したのです。
その件で私は感じました。「クリスチャンとは一人でなるものではなく、二人または三人でなるもの、共同体で一緒になるものなんだ。」
ただし何にでも介入したがる正義感は、「兄弟を得る」忠告とは違うでしょう。相手の声を聞かずに自分の感情をぶつけては、傷つけるだけに終わります。だから二人または三人で集まるのです。「どうしようか」。そこから忠告するために必要な勇気も与え合えます。
「加害者をも導く」という愛の決心のような智慧をマタイ教会は伝えます。それはキリストの決心と同じです。「傷つけあい、忠告し合い、赦し合う。わたしはそんなあなたがたと共にいる。バラバラの個人主義に見捨てない。だから一人ではなく二人または三人で、クリスチャンに、わた1しの体になりなさい。」
二人でクリスチャンになる。その忠告する勇気のために、主イエスは共におられます。