信仰があれば湖も歩ける、何でもできる」と言われたら私は自分を責めてしまいます。「私の信仰が弱いから、凄いことができないんだ。」
イエス不在で船が嵐に悩む時、何かが近づきました。「亡霊だ」と怖がる弟子らに「わたしだ、恐れるな」と言います。そこでペトロは願いました。「もしあなたでしたら、わたしに命令して水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」
実は、この願いは悪魔の誘惑に似る神を試す願いです。信じる前に証拠を求めます。私たちもよく神を試します。「神さま、もしいるなら、奇跡を起こして下さい、病を治して下さい、老いを止めて下さい、宣教を成功させて下さい。」
驚くことに、イエスさまはこの欲求に応じます。「いいだろう、来なさい。奇跡を見せよう。ただし、わたしを疑わずに信じるならば、だ。」神を試す者は逆に、神への信頼が試されのです。
案の定、ペトロも私たちも疑って沈みます。しかしイエスは信仰の弱い者を手で捕えて掬い上げるお方です。信仰は、何か凄いことができる力ではない。何もできない自分を握って離さない主の力です。宣教は自分の力で行うのではない。信仰も力も無く、沈む私たちを捕らえて掬い上げる主が、復活の神が、行う働きです。