人には色んな疲れや重荷がありますが、ここの原意は宗教の疲れです。知識階級のファリサイ派は律法遵守を課しますが、文字が読めず安息日も働く貧困層は守りきれません。神の安らぎを求める人に、代わりに負いきれない重荷を背負わせます。しかも「自分では指一本貸そうともしない」。(23.4) 牧師も姿勢が問われます。
教会にも疲れや重荷はあります。礼拝奉仕、愛餐会や掃除、委員会や婦人会、行事や、伝道活動、そして人間関係、、、。色んな「ねばならない」に疲れ、神存在のしるしである教会の恵みが、虚しい重荷に感じてしまう時があります。
その時こそ「重荷を負ったままわたしのもとへ来い」とイエスさま。「そうすればわたしはあなたと軛を一つにして、ひいてやるから」と。
ただし私たちの肩から重荷が消えることはありません。イエスさまは隣で一緒にひいて下さるのです。どんなに貧しく低められても十字架を背負って死んだ様に、一緒に軛を背負って下さる。復活の命に至るまで背負い遂げて下さる。
指一本どころか自分の命を貸し与えて私たちの軛をひかれるイエスさま。その目的は御心である愛の律法の成就、人間らしさの完成です。