「不当な苦しみに、、、耐える。」(1ペトロ2.19)「そんなんしんどい」と言いたくなります。不当な苦しみに私は「不当だ!」と反発し、虐待やハラスメントには「やめろ!」と声をあげます。
実は聖書は、不当な苦しみや虐待を正当化したり、苦しみを美化したり、歪んだ自己犠牲を決して勧めはしません。そうではなく、奴隷の信徒に「主人から信仰ゆえに苦しめらる時、苦しみに苦しみで復讐せず、善で返す新しい生き方、選択肢がある」と提案しているのです。これは「敵を愛せ」とイエスが教えた選択肢です。
私はつい「苦しめられては人を脅し」ます。苦しみには苦しみ、怒りには怒り、罪には罪で復讐します。それは親子でも、夫婦でも、恥ずかしながら聖職同士でも。そんな私に神は選択肢を示します。「あなたは苦しみの連鎖を断ち切って自由になれる。苦しみを受けても、積極的に善を行う生き方を選んで、自由になれる」。
しかし、苦しみの連鎖をまず断ち切ったのは神でした。人間がどれだけ逆らい、攻撃し、苦しめても、神は苦しみで返されませんでした。逆に、人間の自由を癒すため、神は人間の繰り返す苦しみの連鎖を受けて傷つき、死にました。そして復活し、その傷跡で人間を変えたのです。
良い羊飼いには、羊を癒した傷跡があります。