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「荒れ野で叫ぶ者の声がする」マタイ3:1 (A年降臨節第二主日)
2016/12/04
なぜそんな所に人々は向かったのでしょうか。荒れ野には水がありません。人に見放された孤独な地です。いるのは野犬か、悪魔か、過激な預言者か。ラクダの毛を身にまとい、イナゴを食らい、野の蜜を吸うギョッとさせる預言者。彼の「改心せよ、天の支配は近づいた!」と厳しい言葉は、容赦なく自分たちに変化を要求してきます。
それなのになぜか、、、。それは「新しくなりたい」という願いからです。神は聖書にそう約束していたからです。日本でもお遍路に熊野古道に、人は改心の願いから人里離れた辺鄙な荒れ野へ向かってきました。
イスラエルの民、そして私たち教会という神の民は、まず自分の否を認めて罪を告白します。改心は燃やされるほど辛い、火の洗礼です。しかし火に耐えてなお神に頼る者は、イエスが共に生きる新しい自分に造り変えられます。それが聖霊の洗礼です。
礼拝は私たちが向かう荒れ野です。私たちは裸で、孤独に、自分の弱さと失敗を認める。そして聖餐の天のマナに養われ、新しい天の支配の住人にして頂けるのです。