「義とされる」とは「もう良い、それで良い、わたしはお前を赦す」と神に言われることです。それはどんなに幸せなことでしょう。この赦しの宣言は人を変えます。
神に赦されるのはどちらか。イエスさまは問います。一人は正しい宗教者。不正をせず、断食や献金も沢山する。感謝も怠らない。人々に一目置かれる聖職者です。
もう一人は悪人。貧しい同胞から金を巻き上げて国に納め、自分は甘い汁を吸う徴税人。今なら不正議員か、闇金業者か。会衆の隣にいると想像したくない人物です。
しかしこの二人のうち義とされ赦されたのは悪人の方だとイエスさまは言います。正しい人は怒りで震えたでしょう。理由は、宗教者は人と比べて、自分の価値を誇っている。しかし「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と胸を打って後悔している悪人は、自分を誰とも比べず、ただ自分を変える神の赦しと恵みを願ったから、です。
神が赦して義とするのは、人と比べて価値ある人ではありません。誰とも比べず、独り神の前に立ち、憐れみを願う人です。