「金持ちとラザロの喩え」より、エヒタナハの黄金福音書、1030-1050年、 ゲルマン国立博物館蔵、ニュルンベルク、ドイツ |
「金持ちとラザロの譬え」の満腹の金持ちには、門の外で残飯を待ちつつ餓死していくラザロの存在は見えず、その苦しみは聞こえません。それは死後、神さまの大逆転で立場が入れ替わってもまだ変わりません。金持ちは何とかラザロを使って自分の舌を冷やさせたり、この世に残した兄弟に悔い改めの伝言を伝えさせようとします。金持ちはラザロその人を受け止めて見つめず、同じ側に立てません。だから死後の大きな淵も超えられません。
私たちはこの世に残された彼の兄妹です。今はまだ生きていて、悔い改めの時がある。神は聖書と聖餐を通して懸命に語りかけています。「貧しい者の側に立て」と。この言葉を聞いて実践する者には、自分のすぐ近くで苦しむラザロが見えてきます。今まで見えていなかった苦しむ顔が。そしてその顔からこそあの「死者の中から生き返る」お方が私たちを見つめ返しておられます。「ここにいる」と。