
その姿が見えた時、死にかけの男は「もうダメだ」と絶望したでしょう。ユダヤ人にとってサマリア人は、その昔イスラエルの信仰を捨ててアッシリア人と混血し、聖書を書き換え、エルサレムに替えてゲリジム山で礼拝していた二流民族だからです。「善き」サマリア人どころか、彼らは「悪しき」サマリア人、他人であり敵です。私の敵は誰でしょう?嫌いな人? 悪徳政治家?テロリスト?
この生死を分ける重大時に最も会いたくない奴に会います。自分たちの聖職者さえ面倒や危険を恐れて裏切り無視していった。それなのに今まで馬鹿にしてきたサマリア教徒に何を期待できるか。自分を恨んでいてもおかしくない。
しかし驚くことに、この敵が自分を助けてくれた。憐れみに突き動かされ、危険を顧みずに近寄り、傷の手当をし、ロバに乗せ、一晩中介抱し、宿代を払い、そして足りない分は帰りがけに払うとまで言う。宿屋で独り意識が戻った男は感謝し、今までの自分の世界が敵のこの憐れみによって逆転させられた事を悟ったでしょう。
「敵を助けるような憐れみを、あなたも実践しなさい。」イエス様はそう教えて、サマリア人と同じ道をエルサレムへ上がります。神の敵だった私たちのために殺され、だが復活させられて私たちの友、私たちの隣人となるためです。
どうかこの憐れみに驚き、行えますように。