「私はキリスト者」と言いますが「キリスト」とは「油注がれた王」の意味です。イスラエルの王様は、頭にオリーブ油が注がれて王に即位しました。注がれる油を通して神の霊が注がれ、神の使命のために聖別されたのです。今でも英国王の即位には、油が注がれます。
王や支配者と聞くとつい「公金を使い込むせこい知事か」と連想するのは人間の世界ですが、聖書では神こそが完全に善い統治者、王様です。そして善い王様に統治され、守られ、自由が保証された者が本当の意味での「キリスト者、油注がれた王に統治される者」なのです。祈祷書は毎朝祈ります。「完全な自由は主に仕えること。」それが王なる神の御心です。
しかし「イエスこそ王様」と告白する人は躓きを避けられません。この王さまは力で圧倒して人を支配しません。それどころか無力に逮捕されて連行され、人々の罪を肩代わりするかの様に無実なのに有罪として裁かれ、「ユダヤ人の王」と馬鹿にされて十字架刑で殺されました。「王です」と告白したペトロは三度も関係を否定します。そうして人間の期待が裏切られた後、さらに人間の生き方が根底から覆されます。復活し、今も、生きている、と。
復活と昇天こそイエスさまの即位式。私たちには、悪と罪と死の力を踏みつけ、人間を善く統治して自由を与える王がいてくれます。