これがイエスさまの未来の信徒、つまり私たちへの祈りでした。一つになるように、一致するように。しかし一体どう「一つ」になれと言うのでしょうか。新共同訳は「彼らが完全に一つになるため」と訳します。ですがそれは戦時中の「挙国一致、一致一丸」のように、個人に有無を言わさず滅私奉公を強いる一致ではありません。ユダには裏切る自由が、ペトロには裏切っても後に信じて従う自由があったのです。
「完全に」の原語は「成就する、完成される」という意味です。一つになるとき、私たちを創造された神の意志が成就する、完成する、全うする。人生は愛するためにある。愛し合って一つになるとき、私たち自身の存在と人生がその目的に満たされます。イエス様の願う一致は、自由な意志で愛し合う共同体に成ることです。
私たちは一人では信仰を全うできません。信仰が愛に成就するために私たちはお互いを、兄弟姉妹を必要とします。そして互いを愛し敬う共同体の中に神が存在します。神は父と子と聖霊が愛し合って一つである共同体だからです。
私たちが共に聖餐を祝う兄妹の存在、それは「さあ、私たちと一つになりなさい」と招く神さまの右手です。イエスさまの体です。だから自分の信仰と自由を掛けて、互いを敬い合おう。そんな共同体は神を人々に宣べ伝えます。