毎年この日は必ず洗礼の恵みを祝います。しかし今年のルカ福音書だけは、イエスの洗礼を民衆の一人の出来事として事後報告で済ませ、イエスが「祈っておられる」ことを強調します。儀式より、それ包む祈りこそ大切なんだ、と。
「祈りのない洗礼理解」に無意識に陥っていないでしょうか。私達はつい自分達で教会を定義したがり、未信徒と信徒を線引きする儀式として洗礼を捉えます。そして嘆きます。「あの人は、いつになったら受洗するのか」「ああ、うちの子は受洗しているのに礼拝に来ない」「ああ、私の働きが弱くてもう何年も洗礼がない。」まるで自分の祈りの成果のように考えます。
しかし本当は逆なのです。洗礼は祈りのためで、洗礼が祈りの目的地ではない。受洗者は教父母と司祭と教会と、そしてイエス様ご自身に祈ってもらって初めて洗礼を受けられます。そして自らもまた「祈り」という神との対話に招かれるのです。洗礼はイエスの祈りに始まり、イエスの祈りの内に受洗者は成就されるのです。
そして神との対話の中で、イエスさまの一部として、私たちは何より嬉しく何より強い無条件の肯定を聞きます。「お前は私の大事な子、何があっても、何がなくても、お前は私の誇りだ」この全肯定こそイエスさまの生涯を、そして人の生涯を支える神ご自身の祈りなのです。
「祈りのない洗礼理解」に無意識に陥っていないでしょうか。私達はつい自分達で教会を定義したがり、未信徒と信徒を線引きする儀式として洗礼を捉えます。そして嘆きます。「あの人は、いつになったら受洗するのか」「ああ、うちの子は受洗しているのに礼拝に来ない」「ああ、私の働きが弱くてもう何年も洗礼がない。」まるで自分の祈りの成果のように考えます。
しかし本当は逆なのです。洗礼は祈りのためで、洗礼が祈りの目的地ではない。受洗者は教父母と司祭と教会と、そしてイエス様ご自身に祈ってもらって初めて洗礼を受けられます。そして自らもまた「祈り」という神との対話に招かれるのです。洗礼はイエスの祈りに始まり、イエスの祈りの内に受洗者は成就されるのです。
そして神との対話の中で、イエスさまの一部として、私たちは何より嬉しく何より強い無条件の肯定を聞きます。「お前は私の大事な子、何があっても、何がなくても、お前は私の誇りだ」この全肯定こそイエスさまの生涯を、そして人の生涯を支える神ご自身の祈りなのです。