
ファリサイ派は「聖なる者になろう」という運動を熱心に進めました。しかしその実践があまりにも細かく規定され、本末転倒してしまい、規則遵守が神との関係よりも優先される状態になっていたのです。外なる形式があれば、内なる心をも隠す、と。
そんな偽善をイエスさまは見抜かれます。外見や形式や体裁が人を汚したり清めたりはしない。内なる心から出る悪い思いこそが人を汚し、善い思いこそが人を清めて聖とする。神の民、わたしの弟子とする、と。
教会生活にも様々な線引きがあります。洗礼を受けたかどうか、聖餐を受けているかどうか。事実これらの儀式は聖奠で、主が定めた恵みを伝える秘蹟であり大切です。
しかしイエスさま内なる心を強調します。これらの線引きはもっと大切な線引きを示す道路標識だ。あなたの心から何が出てくるか。相手が信徒か未信徒か関係なく、純粋な愛と敬意で接しているか。心から出るのが愛以外なら、それはあなたを汚している。悪の泉はあなたの心の内にあるのだ、と。