
わたしたちは願い、試します。病気に伏す日々には「少しでいいから癒しの兆候を見せて欲しい」そう願う。でなきゃ信じない、、、。人間関係でも「あなたの愛を感じさせて」とねだります。子供は上手です。「抱っこして、、、」と一言いえばいい。そうすれば体全体で親の愛情を感じることができる。でも大人はそうは言えないので、いろんな形で相手にしるしを求めます。相手の誠意を、愛情を、覚悟を、赦しのしるしを要求します。
復活体験をねだるトマスに、復活後第二主日に現れたイエス様は、自分自身を裸のまま差し出しました。そして招くのです。「さぁトマスよ、好きなだけ私の傷を触りなさい。触って、感じて、体験しなさい。そして信じる人になってくれ。そのためなら俺はなんでもする」と。
このイエスの姿を見たトマスは、体には触れず、その場で福音書の核心を告白します。「わたしの主、わたしの神」。なぜなら「お前が信じるためなら、わたしは自分自身を与えよう。傷や弱さも全て裸で差し出そう」とするイエスさまの姿は、十字架刑で自分の命を与える姿を思い起こさせたから。自分を差し出し、傷つき、死に、しかし復活して赦しを与える。それこそが見えない神の、見える姿だとと思い起こさせたからです。