
本当の「聖家族」はどうだったか、というと実はまったく、俗から離れた「聖」ではありませんでした。親族行事の神殿参りの帰り、12歳になった息子は神殿に単独行動に出て、一人神殿に残ります。それを知らずに1日分歩いた両親はもう顔面蒼白でイエスを探し回ります。どこ? どこ? 親族の誰ともいない。そして神殿まで帰って探せば、なにやら学者たちと聖書論議をしている。
マリアは怒りをぶつけます。「なんちゅうことしてくれるんや!あんた、親にどれだけ心配かけたか分かってんの!もうっ!」 怒りまくる若いママの鼻息が聞こえてきそうです。そして息子の答えがまた反抗的。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ。」その場で平手打ちにしなかったのは、マリアが思い出したからでしょう。この子は処女のまま聖霊によって宿した神の子だったと。
そして18年後イエスが同じエルサレムで殺されて復活し、天へと昇った時、マリアはこの出来事と言葉を思い出したでしょう。「ああ、やっぱりあの子は神の子で、本当に天の父の家に帰ったんだ」と。
「なんでうちの家族はいつも、、、」という家族の現実の只中で神の子は生まれ、育ち、暮らしました。それはわたしたちが家族の現実の中でイエスに出会い、イエスと共に天の父へと導かれていくためです。