
人の子が戸口に近づいている
ある疲れ果てた移動日、民宿の戸を叩くことにしました。急な客にもさすがはプロ、女将さんは丁寧にわたしたちをもてなしてくださいました。
ベツレヘムのあの民宿の主人はどうだったでしょう。人口登録令のおかげで街中が混雑し、ある家族が自分の戸口を叩いたのに断わってしまいました。それは神の子イエスを宿して臨月をむかえたマリアと、身重の妻のために必死に宿屋の戸口を叩き回るヨセフでした。表紙の様な貧しい身なりの若い夫婦、それが神の宿る姿だったのです。神は私たちが最も想像しない姿で、最も予期しない時に来られます。
だから教会ではクリスマスの降誕節の前の四週間を「降臨節」と呼んで、世の終わりについて聖書から聞きます。それは、主イエス様が再び来臨され、わたしたちの戸口を叩かれる日。散らされた私たちを地の果てからも死者の国からも必ず呼び集めて下さる日。そして天の食卓につかせてもらう日です。
その日は近い。ただしその近さは自分の理解を超える近さです。何日の何時、と分かっていればそれまで眠っていても間に合う。しかしそれが何時か分からない。だからこそ「目覚めていなさい」と。今この時にも、主イエスはあなたのすぐ近くに来る。今、この瞬間に天に召されても後悔しないように、いつも今ここに自分の全部を尽くして生きなさい、と。いつも「終わりから数えて、今を生きろ」と。
イエス様こそ「終わりから今を生きる」人でした。終わり、とは神の国の始まり。その使命のためにいつも「今、目の前にいる」人間たちを受け入れ続ける。そんなギリギリの歩みの積み重ねが十字架であり、その終わりの向こう側の永遠の命だったのです。