
「喜びこそ、キリスト者であるしるしは」とパウロは勧めます。楽しい時や嬉しい時に喜ぶのは自然なことです。しかし人生の不条理や逆風の中にある時は、「目の前のことで手一杯です、神さま!喜ぶなんてとうていムリ!」と言いたくなります。
そんな状況がマタイ福音書22章「婚宴の譬え」にあります。主人は婚宴を開いたのに、招いた客は自分の目の前のことを優先させて来なかった。怒った主人はその人たちを滅ぼし、通りで見かけた善人も悪人も誰でも招待した。問題はここから。一人だけ礼服を着ないで来た人がいる。怒った主人はこの人を暗闇に追放した、と。
「急な招待なのに、礼服の準備なんて!」と思います。しかし他の人は着て来たのだから、礼服といっても「清潔な服」程度のことで、この人にもできたことです。しかしこの人だけしなかった。この「礼服」は何かを譬えているのです。
礼服とはやはり、主の婚宴に招かれた者が携えるべき心、つまり喜ぶ心です。結婚式に喜びを携えない者は、「ただ飯を」食う心ない者です。
私達はどんなに苦しくても、どんなに悲しくても、どんなに疲れていても、復活のキリストと堅く結ばれています。だから「主とのこの関係、この絆の内にに生かされている自分たちを喜ぼう。どんなに現実が逆でも、重ねて言う、喜ぶんだ。」そう勧めるパウロ自身、実は牢獄で処刑を待つ身です。そんな絶体絶命の逃げ場無しの状態でこういうのです。「主のうちに喜ぼう」と。