神さまから拒絶される、、、。そんな経験をこの女性の話は語ります。祈れども叫べども願いは聴かれない。神様が冷たい壁の様に感じられる。
この女性は愛する娘の癒しのためイスラエル民族の救い主、ダビデの子イエスの憐れみを求めに来ました。しかしイスラエルから見れば「神知らず」で「汚れた」異邦人は拒絶されます。一度目は冷たい沈黙の拒絶。二度目は「わたしはイスラエルの民だけに遣わされた」と神とイスラエルの契約による拒絶。そして最後には「子供のパンを小犬にやってはいけない」と犬呼ばわりされて拒絶されます。それでも諦めません。
この女性は神の冷たい歴史的事実を認めます。「イスラエルの民が一番で、私たち異邦人は二番目。」神は歴史的イスラエルをご自分の民とする契約を守る。だから私たち異邦人はそのままでは救われない。イスラエルの救い主イエスを信じ、その新しい契約を通して神の子とされます。
この信仰は拒絶を受け容れる謙虚さを持ちつつ、しかしそれでも救い主の憐れみを信じ続けます。「異邦人の私は何の権利も主張しません。犬でもいい。でもどうか私を憐れんで下さい。」古い自分は拒絶され、新しい自分で神に頼る。自分は拒絶されても神さまの憐れみを信じる。
この信仰を見て、神とイスラエルとの約束にだけ忠実であろうとしたイエス様が、この女性を憐れんだ、といいます。イエス様のみ心をも動かしたのです。娘を思う愛、そして拒絶をも乗り越える信頼を、「あなたの信仰は偉大だ、娘は癒された」と。こうしてこのカナンの女性は、私たち異邦人教会の始めとなったのです。
拒絶を超える信頼。これはイエスさま自身の道です。イスラエルの民に拒絶されて殺されても、しかし復活して沢山の異邦人を新しい救いに入れる。神からの拒絶は、救いに至る道で起こる出来事なのです。