複雑骨折の手術を終えたある信徒さんは、その夜、言葉にならない激しい、深い痛みに襲われたといいます。泊まり込みで看護されていた娘さんは「暴れるように痛がる母に何もしてあげられなくて、、、」と辛そうでした。神さまが創られたこの体の痛みは、心の持ちようではどうにもできないものです。唯一、神の癒しが体全体に訪れるのを、うめいて待つしかありません。
そして娘さんは、唯一、人間にもできる大切なことをなされました。それは「共にうめき、共に産みの苦しみを味わう」ことでした。
パウロの目には、この世に創られた生きとし生けるもの全てが救いを待って共にうめいています。しかもそれは人間の罪による傷からの回復です。この痛み、うめく世界の一部として信仰者もまた世の終わりを待っている。この生の終わりには必ず体は復活し完全に癒される、と。
この「最後を待つ」姿勢をイエスさまは「毒麦のたとえ」で教えられます。最後には必ず毒麦は処分される。だから今は、人への善悪の判断について寛容でありなさい、と。しかし、イエスさまにそう言われても、自分には「悪」にしか見えない人と一緒に行きていくのは、非常に忍耐力のいることです。うめきたくなります。
主イエスさまは、そんなわたしたちと、そしてまた被造世界全体と共にうめき、産みの苦しみを味わって下さっている。だから「もうダメ」と言いってしまうくらいの苦しみの中でも、主と共にうめいて、復活を待とう。
そして娘さんは、唯一、人間にもできる大切なことをなされました。それは「共にうめき、共に産みの苦しみを味わう」ことでした。
パウロの目には、この世に創られた生きとし生けるもの全てが救いを待って共にうめいています。しかもそれは人間の罪による傷からの回復です。この痛み、うめく世界の一部として信仰者もまた世の終わりを待っている。この生の終わりには必ず体は復活し完全に癒される、と。
この「最後を待つ」姿勢をイエスさまは「毒麦のたとえ」で教えられます。最後には必ず毒麦は処分される。だから今は、人への善悪の判断について寛容でありなさい、と。しかし、イエスさまにそう言われても、自分には「悪」にしか見えない人と一緒に行きていくのは、非常に忍耐力のいることです。うめきたくなります。
主イエスさまは、そんなわたしたちと、そしてまた被造世界全体と共にうめき、産みの苦しみを味わって下さっている。だから「もうダメ」と言いってしまうくらいの苦しみの中でも、主と共にうめいて、復活を待とう。