「あなたに与えられた聖霊の賜物は何ですか」と聞かれると「わたしにはそんな能力は、、、」とついつい謙遜してしまいます。しかし、イエスさまは確かに「弁護者」聖霊を遣わすと約束しました。また使徒言行録では確かに聖霊は降り、弟子達を力づけ、死をも恐れず宣教させました。
だから、わたしにもあなたにも必ず与えられているはずなのです。でもわたしたちは賜物に気づかない。誤解する。用いることができない。
その理由は聖霊の賜物の誤解です。「自分のための能力や所有物」そう理解してしまうと、霊的賜物を「持っている人」と「持っていない人」に分けて見てしまいます。持っている人は本当の一級キリスト者、そうでない人は未熟な二級キリスト者、となります。そうなると、人の地位ばかりを守りたがります。聖職は信徒より霊的だ、司祭は執事より、主教は司祭よりエライ。そんな聖職主義が蔓延し、教会をダメにします。
パウロはそんなコリント教会のエリート主義に「否」を突きつけました。霊の働きは一人一人に違って現れる。だから比べられない。賜物は人を霊的にエラくするためじゃない。そうではなくて、信仰共同体の愛の交わりに仕えるため、同じ一つの聖霊が、一人一人に違った力や働きや信仰を与える。そうして他人ではなく、あなたらしいあなたを用いる。それが霊的働きだ、と。
神の約束を信じ、あなたのうちに働く聖霊を良く知ろう。そして神に用いてもらおう。この自分自身を。