司祭として「祝福する」恵みを感じています。陪餐時の未信徒の方や子供、病床の方、礼拝から遠ざかっておられる方、、、その時々の言葉で祝福を祈ります。自分の思いは横に置き、純粋にただこの人の幸せを神が与えて下さるように祈ります。
しかし祝福を祈るのは聖職者に限られたことではありません。第一ペトロ書3章9節は、全てのキリスト者が「祝福を祈る」人になれ、と勧めています。好きな人の祝福を祈るだけではありません。むしろ自分の敵の祝福を祈れ、と。自分に冷たい人、無視する人、迫害する人、悪や侮辱をする人の祝福を祈れ、と。家族や身近な「敵」の祝福をこそ、わたしたちは祈っているでしょうか。敵を祝福する、このためにこそキリスト者は召された、と宣言されます。人を祝福し、敵を祝福し、祝福を尽くして生きる。自分が祝福されるよりも、人を祝福する。そうして祝福する生き方ことこそ、神の祝福を受け継ぐことだと。
この「祝福する生き方」の根本には、わたしたちが枝である「ぶどうの樹」キリストがおられます。「正しくない者のために苦しまれた」(18)この正しいお方は、復活の後ペテロら弟子を赦し、祝福します。「わたしはあなたと共にいる」と。主が祝福されるのです。だからわたしたちは祝福を祈ります。わたしたちは「目の前の人を祝福しなさい」と祝福の主に呼ばれているのです。