「キリストを出迎えるマルタとマリア」チチェスター大聖堂、1120頃 |
涙には色んな涙があります。「うれしくても泣くことあるんやでぇ」と子どもでも教えてくれます。
今日のイエス様の涙は、怒りの涙です。もらい泣きではありません。なぜなら「わたしは復活であり命である。」と強く宣言されるからです。
マルタとマリアは6日も待ったのに、主は来られなかった。そして弟ラザロは死んだ。女達は泣いて不平をぶつけます。愛する人の死の悲しみ、神への不平不満を、信仰者はイエスにぶつけて良いのです。必ず聞いて下さるのです。
マルタの信仰告白のあと、マリアと周りのユダヤ人たちが泣き続けるのを見て、イエス様は「心に憤りを覚え、興奮して」言われます。「どこに葬ったのか。」ユダヤ人達は「自分の目で見て確かめてみろ」(34節の直訳)と言います。
つまり「死は絶対」。この絶対的な壁の前で、人は泣き、諦め、恨み、自分や人を責め、でも結局は受け容れるしかない、、、と皆、思います。
しかしイエスは違う。死の支配に勝つために、人の死をその身に受けて殺され、三日目に復活させられて、信じる者に命を与える。その徴として「ラザロ、出てこい」と復活させたのです。
死を超える命への不信に対する怒りで、イエス様は涙をされました。「なぜこんなに人は悲しいのか、なぜ人は信じられないのか、、、」悔し涙を流しつつ、この救い主は死と戦いに向かわれます。十字架の受難を経て、復活の命に輝くまで。