思春期の少年や、必死な求道者は、その求める心に忠実であるがゆえに、ときに親や指導者に反発し、挑戦します。それを受け止められるほど肝の座った、愛情深い人との出会いは大きな恵みとなります。
トマスの疑いは悪意からではなく、忠実な心から出たものでした。トマスは、イエスさまが危険な都に上る時に「一緒に行って死のうではないか」と勇んだ人です。だからこそ一層トマスにとって、先生を見殺しにしたあの十字架の事件は、心を真っ暗な闇に引きずり込みました。「わたしは主を見捨て、傷つけ、殺してしまった。」そして教会を離れて、引きこもっていたのです。
「イエス復活」の噂にも「わたしが見殺しにした主の傷と痛みと苦しみはどうなるのだ。わたしの知る主は、苦しみ死んだお方。復活して生きているというそのお方は、本当にわたしが見殺しにした主イエスなのか。自分でその痛みの痕跡を確かめなければ決して信じない」と。
自らの裏切り体験に忠実であるがゆえに疑うトマスを、主イエスは100%受け止められました。裏切りによるご自身の傷と痛みを、格好悪くさらけ出し「さあお前の手でわたしの傷に触れるんだ、そして信じて生きる者になるんだ」と。
傷の癒えた復活の主に出会い、トマスは赦されました。そして復活を信じて命を受け始めました。あなたにも、今日の聖餐の内に、主は御傷を見せられます。「信じる者になりなさい」と。