誰かのために死ぬ、という大それたことは、わたしには到底できない理想のように感じます。それでも、愛する者のためなら「できることなら、替わってあげたい」と思うことはあるのです。
息子が一歳半でロタ•ウイルスに罹り、幾日も下痢して痩せて泣き続けた時には、真面目にそう願いました。みなさんも愛する人が苦しむ時、「替わってあげたい」と思われるでしょう。
十字架のキリストはこの「替わってあげたい」という愛を、無限に生きたお方です。相手は愛すべき純真な幼子ではなく、憎まれるべき「弱く不信心な、罪人、(神の)敵」だからです。(6,8,10節)。死の滅びを選んでしまうわたしたちです。
ご自分を嫌い、ご自分から離れ、逆らうわたしたち人間を、神は愛された。「それでも、替わって死んであげたい」と思われた。そして不誠実への怒りを、ご自分の御子の内に処分されました。そして十字架にかかって死なれたのです。
わたしたちが一番暗く、悪く、死に近かったとき、既に十字架のイエス様は替わりに死んでくださっていたのです。表紙絵のサマリアの女のように、十字架のイエス様は暗闇から語りかけてこられます。「わたしはあなたを愛した。あなたに替わって死んだ。だから生きよ、復活したわたしと一緒に、新しい命を生きよ」と。