パウロが始めに指摘する問題は、教会内の争いです。コリントの信徒は互いに競い合い対立していました。「わたしはパウロに属する、わたしはアポロに属する」と自己主張し、大切なキリストとの関係を後回しにしていたのです。洗礼を受けた指導者のグループに入っている自分を自慢にし、その指導者の魅力を誇り「自分達こそ正しいキリスト者だ」と競っていました。
これに対してパウロは「キリストの名による洗礼でキリストと一体となった兄弟同士、心を一つにせよ」と勧めます。「洗礼を誰から受けたか」より「十字架の福音の宣教」こそ大切だ、と。
魅力的な「カリスマ」指導者達の雄弁さはこの世的な「言葉の知恵」です。それに対して、本来の信仰はキリストの十字架の福音、人間の言葉や説得、強さや魅力によらないものだと。「わたしはキリストの十字架の力がむなしいものなってしまわないように、言葉の知恵によらないで告げ知らせる」と。それはどのようにか?
それは躓きと弱さを通してです。かっこ悪く弱い自分を誠実に認め、こんな弱い罪人のために十字架で躓き死んだキリストに頼る。そして復活して新しい命を与えるキリストに従う。
浅い言葉ではなく、救い主の十字架を信じて生きる姿勢によって告げ知らされる福音。この福音こそが本当に人を救う力を持つのです。