これは使徒パウロがローマで裁判を受けて処刑される直前の言葉です。しかも「最初の弁明のときには誰も助けてくれず皆わたしを見捨てました」(16節)という弱さ体験した中でのことです。「大使徒」が皆に逃げられ見捨てられ、一人きりで命がかかった裁判に臨まなければならない。その弱さと孤独を真摯に告白しています。
その中で、パウロは証しします。「主がわたしのそばにいて、力づけてくれた。」「主がわたしの横に立ってくれていた。」手を伸ばせば触れることができるような具体的な感覚で、復活のイエスの存在を近くに感じた、知った、と。
福音書で祈る「徴税人」もまた、神の臨在を非常に近くに感じて、だからこそ真摯に自分の非を認め、神に願います。「神よ、わたしを憐れんでください。」しかし、ファリサイ人の祈りは神に願い出る必要もない、自分の価値を自分で造る独り言です。神の存在は必要ないほどです。
自分の弱さと孤独、失敗と不安を真摯に目の前に存在する神に告白するとき、主は必ずあなたの横に立ってくださる。胸を打つ徴税人の隣に、孤独なパウロの隣に立ったのと全く同じに、あなたの横に立って、力づけてくださる。なぜならイエス様ご自身が、同じように父の存在に力づけられて生き抜いたから。この人が復活して、今、あなたの横に立ってくださるのです。