「あなたは神に愛されている。」
このメッセージを受け、人に伝えることは全てのクリスチャンの使命であり喜びです。
しかし折が良い時もあれば悪い時もある。牧師と信徒、信徒同士で伝えるのは、未信徒に宣べ伝えようとするよりスムーズに感じます。相手と信仰を共有しているという思いがあるからでしょう。その点では教会内で説教する牧師より、教会外の人間関係へと派遣される信徒の方が宣教の最前線に立っていることが多いです。
未信徒や仏教徒の人には、神やキリストという言葉に拒否反応を示す人もいます。または言葉にする前に既に「宗教的なもの」全般に対してアレルギーを示す人もいます。
しかしそれでも「気を落とさずに絶えず祈れ」と福音書にあるように、「折が良くても悪くても励め」と使徒は命じます。なぜなら、キリストは御国の内に必ず来るのだから、と。(4.1 )
この「励む」の語は「いつでも間に合うように側に立ってる」という意味です。その人にとっての「神の時」が来たら、すぐに愛の御言葉を語ってあげられるように、傍で待っている。共に居る。それまで神を信頼して、静かにただ共に過ごす。
実はイエス様こそこうして下さっているのです。愛を語ってあげようと、傍らで時を見つめて待って下さっている。苦しい死の間際にも。