文字通り「すべての人々」です。自分が生きる社会で出会うすべての人。信仰や境遇や意見を同じくする人だけではない。そりが合わないあの人も、赦す事なんて絶対できないあの人々も、もちろん、あまりにも近くにいるので忘れてしまう家族のためにも、祈りなさい、と命じられます。それが信仰者の人間関係の根本だ、と。
しかし使徒に命令されても、なかなかそうできないのが人間です。自分はとうてい、清く正しく美しく、人のために祈ってなんていない、、、。
ここで福音書の「不正な管理人」を読むと、なんだかホッとします。不正な管理人は、人生の会計報告が近い、と切羽詰まって、自分の居場所を確保するために、人々の借用書を書き換えて恩を売ります。これはまるで「神の国が近づいた」から、なりふり構わずに救いを求め、いつもは赦す事の出来ない人を片っ端から赦していくことに似ています。今までの不正に対する怒りなんて忘れて赦しまくるのです。その人の罪を赦せば赦す程、結局その人は主なる神に赦されることになり、自分もまた救われていく。
どれだけ「不正」にまみれた自分でもいい。すべての人を赦して、祈って。最後には感謝して生きていけ。それこそ、あなたを赦そうと十字架で死んだイエスの生き方だったのだから。
しかし使徒に命令されても、なかなかそうできないのが人間です。自分はとうてい、清く正しく美しく、人のために祈ってなんていない、、、。
ここで福音書の「不正な管理人」を読むと、なんだかホッとします。不正な管理人は、人生の会計報告が近い、と切羽詰まって、自分の居場所を確保するために、人々の借用書を書き換えて恩を売ります。これはまるで「神の国が近づいた」から、なりふり構わずに救いを求め、いつもは赦す事の出来ない人を片っ端から赦していくことに似ています。今までの不正に対する怒りなんて忘れて赦しまくるのです。その人の罪を赦せば赦す程、結局その人は主なる神に赦されることになり、自分もまた救われていく。
どれだけ「不正」にまみれた自分でもいい。すべての人を赦して、祈って。最後には感謝して生きていけ。それこそ、あなたを赦そうと十字架で死んだイエスの生き方だったのだから。