「忍び」と書きますと上野忍町の教会ではどうしても忍者を連想します。忍者の「忍ぶ」は「自分の存在を隠す」意味で、「心」の上に「刃」と書いて強靭な「靭帯」を表したのだそうです。
今日の使徒書(7月から4週続いたコロサイ書の最後)では、キリスト者であるしるしとして互いを忍び合いなさい、と教えられています。
お互いを我慢する。相手の存在に耐える。相手のいい分に、自分は正反対であったとしても、耳を傾ける。耳を貸す。そして弱さや失敗を持つ相手の存在を、受け入れられなくとも、受け止めようとすること。まさに強靭な、しかし柔軟な心で「自分の存在を隠さ」なければなりません。弱く切れやすい心の靭帯では、すぐに自己主張をし、相手を忍ぶどころかぶつかって対立したり、責めあったり、傷つけ合ったり、、、。
「忍び合う」とは、相手にも自分にも自我があり主張があることを前提としています。その上で相手の存在を受け止める。そんな持続的で地味で、まさに隠れた愛を神は伝えるのです。
結局はイエス様だけが、わたし達の存在をその弱さの最後まで忍び、受け入れて下さったお方です。私達の不平不満を、罪な願いや、主張をも忍んで聞いて下さった。そして今も聞いて下さっている。このお方の忍耐の中に、わたし達が忍び合うための、強靭な心の源があります。