必要以上に、また、損得勘定を超え、無限に感謝して生きていく、、、。これこそ最も幸せな人間の姿だと使徒書は教えます。
わたしたちは、どれだけ感謝を忘れて生きていることでしょう。「もっと買え、もっと楽しめ」という資本主義は、欲求不満を満たすことをそのエネルギーの源としています。この世の「むなしいだましごと」です。この世の力に支配されているかぎり、わたしたちはどれだけ受けても満たされず、感謝をすることもありません。「日ごとの糧」の食卓で感謝することも、なんだか恥ずかしい場違いのような錯覚に陥ります。
しかし、「あなたたちは満たされたじゃないか」と使徒は語ります。キリストを「受け入れて」(2:6) そして「キリストにおいて満たされている」じゃないか、と。生きることの罪がすべて赦されて、そして生きていくことの希望が全て救い主との関係のなかで満たされたんだよ。
だから、感謝していいんだ。この世に生まれてきたこと、弱く罪を犯すにも関わらず愛されたこと、救われたこと、色んな人と出会ったこと、そしてここに今生かされていること。もうすべてを感謝して、「父なる神様、ありがとう」とイエス様と一緒に感謝を捧げるのです。
この溢れんばかりの感謝こそがイエスに現れた「神性」です。イエスのように、人生と死と復活は一つの大いなる感謝なのです。