洗礼を受けて13年もなるのに、わたしはしばしば「愛の実践からかけ離れている」自分、心の罪の奴隷になりさがる自分を発見します。
それは特に自分が確信する正しさに反する人々を批判する時です。さらなる反発と敵意を呼び、その応酬はいつまでも続きます。そこで気づくことには、それではいつまでたってもわたしは「敵意の奴隷のまま」という事実です。これでは駄目だ。なんとかして主に帰りたい。
キリストの自由に生かされているのが本当の姿なら、もう自分の正義から出る「敵意と争い、、、」は捨てて「霊の実りである愛、喜び、平和、寛容、、、」を少しずつでもいいから選び取ろうと決めました。そしてこの選択はわたしに平和と喜びを与えました。助言や祈りは助けになりましたが、それは聖霊の導きでした。
わたしたちは自由です。しかし自分の判断にまかされれば、簡単に罪に巻き込まれていくほど弱く自由です。わたしたちの自由は父のみ心、神の自由に従う時、最も強く平和です。
だからこそイエス様自身が選び取られた自由の形に従わなければ、わたしたちは本当に自由ではないのです。それは自分を無にしてでも人を愛する十字架の形です。さあ自由になろう。少しずつでいい。主の力に導かれよう。