「信仰により救われる、、、」この言葉が使われれる時、いつも最後にはなにか騙されたような疑問が残ります。それは「自分がなにか頑張って信じようとすることで救われるなら、それはまたべつな無駄な行いの努力ではないか」ということです。つまり「信仰」が、またひとつ別の「自分の宗教的行為」なのだとしたら、それは自分で自分を救おうとすること。それは無理だ。だって自分は力なく、弱いじゃないか、、、。
「イワシの頭も信心から」のような、人間の信心の持つ不思議さや迷信が人を救う、とパウロは説いているのでしょうか? いや、違う!!
翻訳では見落とされていますが、この「信仰」の主語はあなたやわたしではなく、イエスです。イエスが父を信頼し、人の可能性を信じ、そして行った救いの業です。神が人を信じたのです。
あなたやわたしを愛して、ご自分の命をそのまま十字架刑で神に捧げ、罪を帳消しにし、神の子どもとして、天使のように喜び笑える存在にしてくださった。そのイエス様の信仰、御生涯、復活存在を、パウロは「信仰」と呼ぶのです。人はただ、これを喜び受け入れるだけなのです。
神の子としての喜びとは、自分の行いや資質や価値をすべて十字架につけたとき、神から与えられる無条件の愛です。ただ喜んでこの愛を受ける。これが「イエスの信仰による」救いです。
翻訳では見落とされていますが、この「信仰」の主語はあなたやわたしではなく、イエスです。イエスが父を信頼し、人の可能性を信じ、そして行った救いの業です。神が人を信じたのです。
あなたやわたしを愛して、ご自分の命をそのまま十字架刑で神に捧げ、罪を帳消しにし、神の子どもとして、天使のように喜び笑える存在にしてくださった。そのイエス様の信仰、御生涯、復活存在を、パウロは「信仰」と呼ぶのです。人はただ、これを喜び受け入れるだけなのです。
神の子としての喜びとは、自分の行いや資質や価値をすべて十字架につけたとき、神から与えられる無条件の愛です。ただ喜んでこの愛を受ける。これが「イエスの信仰による」救いです。