今日から6週連続で「ガラテヤの信徒への手紙」を通して神の言葉に聴いていきます。短いこの手紙の中でパウロはキリスト信仰の核心を語ろうとします。しかも実際にガラテヤ教会の中で、その核心とは違う方向に信徒を誘導する者達に反論しながら語っていきます。「呪われよ」とかいう過激な言葉はその熱情の表れです。
ではその核心とは、「何によって救われるか」、です。宗教儀礼を行うことか、それとも人間の罪を担って死んで復活したイエスを信じることか。行いかそれとも信仰か。人間の自己肯定か、それとも神の愛を信じてただ受けることか。
パウロは「信じることだ」と説得します。何かを行うことで得る自分の評価や意味は、決して神の前で自分を価値ある存在とはしない。むしろ自己満足か、無限に続くノルマの奴隷となるだけだ。そんな宗教は喜びの「福音」、つまり神の救いの知らせを歪めて覆すものだと。
福音とは生きる喜びで、信じる者に神から与えられたギフトです。自分の力で勝ち得えたステータスでも、勝ち得たい目標でもありません。人間は、弱く罪を犯してしまう存在のまま、無条件のまま、神に愛されました。弱いまま十字架上の弱い姿の神に受け止められ、そして、力強く新しい神の子として創り直される。どうかこの喜びが何によっても覆されませんように。