当然です。悲しんでフツウです。「イエスは復活した」と言っても、天に昇ったら今までどおり顔を見つめて話をして、一緒に食事もできなくなるからです。昇天して目に見えない存在になるとは、普通の人で言えば「死んで天国に行ってもう会えない」のと似た感じがします。
しかしここからが普通の人とは違う。確かに目で見て、手を握られない存在になる。しかし「わたしが天の父へ行って見えなくなったら、見えない聖霊を送って、わたしの存在をあなたに伝えて、ずっと一緒にいるようから」と約束されるのです。見えないけどわたしの存在を与える。だから悲しまず喜びを待ちなさい、と。
キリストでなくとも、わたしたちは死んだ人の存在を近くに感じる時があります。時や場所が違っても、霊が愛する人の存在を伝えるのです。しかし当然、そうなる前には、この目に見える世界から見えない世界への旅立ちがあり、そこには必ず恐れと悲しみが襲ってきます。
だからこそ悲しみを乗り越えようとする人の隣に聖霊は遣わされ、その人を護って見えない命の交わりへと導く。三位一体の神によって、見える死は見えない命の喜びに必ず飲み込まれる。そう信じる。いや、そう信じる力すらも聖霊から受ける。そうして、見える世界と見えない世界を、神ご自身がつなぎとめられます。