「リストラでのパウロとバルナバ」ヤコブ•シモンツ,1629 メトロポリタン美術館、ニューヨーク |
礼拝後に「よいお話でした」と言われてイイ気になる牧師ほど情けないことはありません。それより本当に大切なのは、一人一人が生ける神に出会い、キリストと霊的に交わる、自分がどれだけその助けになれたか、です。
同様に、聖パウロが男の足を癒した後、街の人々は「あなたは降りてきたカミだ」と雄牛と花輪の供え物を持って来ました。パウロは怒って、また情けなくて叫びます。「わたしはあなたと同じ弱い人間じゃないか。わたしは自分を伝えようとしたのじゃない。あなたが生ける神に立ち帰るために、福音を語ってきたんだ。あなたを愛する神に、命の源に帰れ」と。
「自分ではなく、生ける神に、、、」というのは、ヨハネ福音書のイエス様も同じです。天の父に帰り、肉体的にイエスを観て触れることができなくなったあと、「自分にしがみつこうとするな、不安がるな、おびえるな」と。そうではなくて、霊的にキリストに生かされよ。聖霊によって助けられ、自分自身の生活のなかで、霊的に生きよ。神に生かされ、そして人を愛し抜いて、自分でなくて、生ける神を伝えよ、と。
あなたが霊的に生かされる。それゆえに、周りの人をも霊的に生かす。それこそが肉となって死に、復活して父に帰った主の望みです。