財産はいったい何のためにあるのか?
もちろん「捨てられない」人間の現実を主はよくご存知です。だからこそ主は父の懐の「豊かさ」にいることを捨てて人間となり、自分自身を人間に与え尽くされました。執着する人間に、自分を捧げきる神の生き方を与えるのです。
わたしたちは、キリストのうちに、自分全部を与える存在になる。神が人となって自らを与えたのは、わたしちも自分自身を人に与えるため。与える存在になるためです。
1年前に熊野地方が水害にあった時、水不足で街中の人がピリピリして、店頭や給水所で水の争奪戦が起りました。保育園も必死に水を集めて、たくさんのタンクに水を確保しました。
そこで、水の保管について意見が別れました。一人は「水を運ぶのを大勢に見られていたから、夜間に貴重な水を盗まれないよう、鍵をかけよう。」もう一人は「いいじゃあない。水を今、必要としている人がいれば、あげればいい。元々必要な人のために与えられた水なんだから」と。
当時、井戸を持つ豆腐屋さんは、ホースで水を開放して、皆に与えていました。とても象徴的でした。神は与える存在です。だからわたしたちも与える存在となるのです。ちょうど聖餐式で「全ての物は主の賜物、わたし達は主から受けて主に捧げたのです」と唱えるように。