緊迫した受難の途上で、イエスは子供を弟子達の真ん中に立たせます。休日に子供を中心にお弁当を食べてるのとは違います。天使のような純粋さをほめるていのではなく、無力な存在を受け入れる神を示されるのです。
昔の日本のように、当時の子供は「一人前の人間」ではありません。大人に比べたら、子供は無力で、発言力が無く、権利も無く、また収入もない。存在しないも同じです。
その無力で無意味な存在を、「誰が一番偉いか」と言い争う大人達の真ん中に立たせたのです。「こんな無力な存在として、わたしはある」と。受肉によって神は無力な人間となりました。それは無力な人を、そのまま、三位一体の神の真ん中で抱擁してあげるためです。
生活弱者、福島被災者、障がい者、病気に苦しむ人、社会の隅に追いやられた人、死んだほうが楽かと思う人、、、無力さに打たれる人は全て、イエス様が手を取って御国の真ん中に立たせる存在です。イエス様ご自身の圧倒的な弱さは人間の理屈や価値を覆します。
しかし、だからこそ、私たちも弱いままで神に受け入れられるのです。神が無力な子供となったのは、無力な私達を、神の子供として新しい命のうちに受け容れるためなのです。