わたしはみもとに参ります。
「主の昇天」聖カタリナ修道院、至聖所飾り(12世紀シナイ山)
ヨハネ福音書17.13
「ママ、いかないでー」と訴える子どもに同感する「昇天後主日」です。一体なぜ主は昇天する必要があるというのでしょう。なぜそのまま一緒にいてくれないのでしょう。
イエス様の体は天に昇ります。この体は、目に見える時と場所を超て、目に見えない神の恵みの中へと消えていきます。しかしそれは「一緒にいてくれない」どころか、 「自分の体のように人間と一体になる」ためでした。
キリストが体を消されるのは、わたしたちをご自分の体とするためです。全ての時と場所を超えたのは、全ての時と場所でわたしたちと一体となるため。二千年前のイスラエルにいる限り、今ここにいるわたしたちは「キリストの体」として主と結ばれないのです。
ここに神にしかできない「体の交換」があります。キリストはこの弱く不自由な人間の体を受け、人となって苦しみを知り、死なれました。しかし、復活して天に昇られたのち、今度は聖霊によってわたしたち一人一人を、弱さもろとも、自分の体とされるのです。
あなたの苦しみはすべて、キリストが自分の体の苦しみとして感じられます。そして、すべての時と場所であなたは、弱いそのままで、キリストの体なのです。一体なのです。